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2019年6月の特集は「歴代ストッパー4傑」です。
1人目は、虎の初代守護神として大活躍をした山本和行選手です。
若い阪神ファンの方はご存知ない人も多いと思いますが、山本選手は1980年代を代表する左腕。
彼がどんな選手であり、守護神としてどんな活躍をされたのかを詳しく紹介していきます。
山本和行ってどんな選手?
ポイント
名前:山本和行
生年月日:1949年6月30日
身長:175cm
体重:78kg
出身地:広島県広島市
出身校:広島商ー亜細亜大
プロ入りまで
広島出身で名門・広島商業のエースとして活躍した山本選手。
1学年上には、後に広島カープの監督になる三村敏之さんがおり、甲子園にも出場しています。
その後、亜細亜大学に進学して2年生からエースとして活躍し、大学初の日本一へ導きました。
1971年ドラフト1位で阪神タイガースへ入団するのですが、彼は巨人以外を希望していました。
その理由としては、長嶋・王の両選手と対戦したいからだったそうで、願ったり叶ったり。
(本当は広島カープに行きたかったそうですが。。)
阪神入団後
阪神入団後の山本選手といえば、「先発と抑えの二刀流」を体現した選手として有名です。
17年間のプロ生活において、以下のとおりの記録を打ち立てていらっしゃいます。
メモ
通算100勝100セーブ(達成者8人のみ)
700試合登板(史上11人目)
オールスター7回選出
最優秀救援投手2回
1970年代当時、先発完投が当たり前だった頃に抑えの切り札として君臨した山本選手。
先発と抑えの二刀流をずっとやってきて、本格的に抑え専門になったのが1982年から。
安藤統男監督の就任がきっかけとなり、この年と1984年に最優秀救援投手を受賞することになります。
なかでも注目すべきなのは、17年で700試合登板を果たしたというポイントです。
入団から毎年平均40試合も投げている計算になりますから、相当タフな選手だったのでしょう。
しかも先発も抑えもやっていたので、かなり体を酷使していたのは間違いないと思います。
変わり者と呼ばれた3つのエピソード
そんな山本選手ですが、現役時代は「一匹狼」「変わり者」と呼ばれていました。
自己流を貫くスタイルからそう呼ばれたのですが、具体的エピソードを3つ紹介したいと思います。
独自のフォークボールを自分で開発
山本選手は、ルーキーイヤーからフォークの習得に取り組んでいました。
当時の阪神には、江夏豊・村山実・上田次郎などの名投手が揃った黄金時代。
にもかかわらず、先輩たちに教えを乞わずに自己流でフォークを完成させたのです。
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ここが変わり者と呼ばれるゆえんなのですが、山本選手のフォークは特殊なのです。
普通はグラブの中で握りを変えると思うのですが、モーション中に変えて投球するそうです。
イメージは手品師の指先の使い方だそうで、スムーズな指の動きを意識して取り組んでいたそうです。
素人感覚だと、ボールを落としてしまいそうなのですが。。これが山本選手のスタイル。
ご本人いわく、これはやろうと思っても誰も真似できないんだそうです。
そんな昔のことを回想しながら語られているYouTube動画がありましたので、ここに載せておきます。
8:20くらいから伝家の宝刀・フォークに関するトークが始まりますので、チェックしてみてください。
1984年オフにメジャー挑戦を表明
2度目の最優秀救援投手となった山本選手は、その年のオフにメジャー表明をしています。
当時、メジャーに挑戦する選手は全くおらず、環境も整っていない中での挑戦はまさに変わり者。
このことについても、先ほど貼っておいた動画の前半で話されていますので、見てみてください。
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その理由は、阪神タイガースのキャンプ地だったハワイでドジャースからオファーがあったから。
ロン・ペラノスキーというコーチが、山本選手のドジャース入りに向けて動いてくれたそう。
年俸・住まい・通訳などはシーズンオフにすでに合意していたとのことでした。
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結論から言えば、メジャー移籍は実現しませんでした。
後にインタビューで、山本選手は当時のことをこう語っています。
以前から(メジャーの)話はあったんですが、84年のオフにロサンゼルスまで行って話はまとまってたんですよ。給料も決まっていたし、住居も日系の用具係のコウノさんがアパートを紹介してくれて、背番号も『25』に決まってた。でも行けなかった…それが正解です。球団が首を縦に振らなかったんです…。FA制度が日本で導入されたのは93年。僕が海を渡りたいと考えてから10年も後のことでしたからね。
時代が山本選手に追いついていなかったのか、FA制度もなく結局メジャー移籍は実現せず。
そのあと、初めて日本人メジャーリーガーで大成功したのが野茂英雄投手で1995年のことですからね。
阪神タイガースも、第一線で守護神として活躍していた山本選手を手放したくなかったでしょう。
ちなみに日本人初のメジャーリーガーは、1964年にジャイアンツに入団した村上雅則選手。
ただし、南海ホークスから1Aに野球留学した際にたまたまメジャーの舞台に立ったくらいのもの。
本格的にメジャー挑戦を表明して海を渡る決断をしたのは、実は山本選手が初めてだったのです。
プロ野球引退後、ゴルフ業界の重鎮へ
もともとゴルフもプロ並みに上手かった山本選手は、プロ野球引退後はゴルフの道へ。
1988年シーズンで阪神を退団し、広島カープのコーチや解説者を経た後にゴルフ界へ転身。
現在は、「日本インストラクタープロゴルフ協会専務理事関西支部長」を務めています。
その証拠に、実際に公式HPにも山本和行としっかり明記されています。
関西支部長とか、めちゃくちゃ重要なポジションに就いていますね。。。
プロ野球界からゴルフ界に一気に転身して、重鎮にまでなるとはやはり変わり者。。。
アキレス腱断裂で逃した日本一の美酒
1985年といえば阪神タイガースが日本一になった年ですが、山本選手も獅子奮迅の働きでした。
抑えといえば中西清起さんを思い浮かべる人も多いですが、当時は山本選手と二枚看板でした。
しかしながら9月4日、ナゴヤ球場で練習中にアキレス腱を断裂する大怪我をしてしまいます。
シーズン終盤の出来事だったため、リーグ優勝の瞬間は神宮球場に松葉杖をついて観戦していたそう。
反骨精神の塊のような性格の持ち主なだけに、悔しさは並大抵ではなかったでしょうね。。
翌年、ケガから復帰して完全復活を遂げることに成功。
11勝3敗15セーブ防御率1.67という驚異の数字を残し、阪神ファンを驚かせました。
その後は年齢的な問題もあり、徐々に成績を落としたため引退となりました。
17年間でちょうど700試合登板し、先発と抑えともに大活躍した、まさに虎の功労者ですね。
まとめ
初代虎の守護神として、山本和行選手をご紹介しました。
メジャーからも注目されていた左腕は、阪神で初めて100セーブを記録した偉人です。
藤川球児選手が抜くまで最多セーブ数でしたし、1970〜80年代を支えた大黒柱。
彼のような一本筋の通った選手が、これからも阪神で生まれるといいですね!
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