毎週お送りしてきた「高校野球特集」ですが、5月度の特集はこれで最後となりました。
最終回は我らがタイガースの不死鳥こと、鳥谷敬選手の高校時代に迫りたいと思います。
2000安打、1939試合連続出場(歴代2位)という金字塔を打ち立てた鳥谷選手。
彼が聖望学園で過ごした3年間についてご紹介していきますので、ぜひ読んでください。
鳥谷敬が聖望学園を選択した2つの理由とは
阪神タイガース入団2年目から正遊撃手となり、10年以上もフル出場を果たしてきた鳥谷選手。
鉄人とも呼ばれた彼が育った原点といえば聖望学園時代ですが、当時は甲子園出場経験のない高校。
なぜ鳥谷選手は、名門校ではなく聖望学園を選んだのでしょう。
その背景には、2つの理由があったのです。
父親の影響
鳥谷選手がそもそも、高校で野球を続けるきっかけになったのが父親の影響だったのです。
鳥谷選手はもともとプロ野球選手を目指しておらず、むしろ中学で辞めようと思っていたそうです。
野球を中学で辞めようと思ったきっかけは、膝の成長痛がひどく全然プレーできなかったからです。
強靭な肉体でフル出場を続けていたプロの鳥谷選手からは、想像ができない理由ですよね笑。
満足にプレーができない状態だったため、高校進学後は違うスポーツを始める予定だったそう。
そんな彼に高校でも野球を続けるよう説得したのが、鳥谷選手の父親でした。
「野球だけは続けてくれ」と鳥谷選手に伝えたことで、高校でも野球を続けることを決断。
この理由は「野球で成功するかもしれないと思ったから」だったそうです。
素晴らしい洞察力というか、さすがは鳥谷選手の父親だなあと思ってしまいますよね。
シニアチームのつながり
当時所属していた「瑞穂シニア」のつながりで、聖望学園に推薦してくれたのが2つ目の理由です。
鳥谷選手が生まれ育ったのは東京都東村山市で、北部が埼玉県と隣接している地域。
埼玉県にある聖望学園へのアクセスも良く、コネクションもあったことから進学したのです。
こんな疑問を抱く人も結構いると思います。
なぜ鳥谷選手レベルの人が、甲子園出場経験のない高校へ進学したのか謎ですよね。
この答えは「甲子園出場を目指していなかったから」です。
鳥谷選手は聖望学園にスポ特(スポーツ特別推薦)で進学したのですが、甲子園には興味なし。
それもそのはず、膝の成長痛で野球を辞めようと思っていたくらいですからね。。。
当時の聖望学園は埼玉県内ベスト8か4で敗退するくらいで、甲子園への高い壁が立ちはだかっていました。
しかし鳥谷選手は、チームを強くして甲子園へ!みたいな感情もなく、そこでいっかという感じ。
鳥谷選手らしいといえばらしいですが、野球へのストイックさは当時はまだなかったようですね。
仲間とともに戦って掴んだ甲子園初切符
聖望学園進学後、いきなり頭角を現したのかといえば、意外とそうでもない鳥谷選手。
そもそも膝の成長痛がひどく、入学後の3ヶ月半はまともに練習もできずにベンチ要員。
高校生活のスタートは成長痛との戦いだったのは、結構驚きですよね。
2年生になってようやく主力になり、ショートのレギュラーを掴んだ鳥谷選手。
そんな2年生の春、鳥谷選手はリリーフピッチャーの練習もスタートして二足のわらじ生活に。
理由は「3年生ピッチャーの数が少ないから」だそうで、両方の練習をこなすようになったそう。
鳥谷選手が3年生の夏、見事埼玉県大会で優勝して甲子園に出場しています。
それが実現できた理由は、シニア時代から苦楽をともにした仲間の存在が大きいそうです。
鳥谷選手の中学時代の同期で、聖望学園のスポ特に進学したのは6名もいました。
寮生活がなく、自宅通いだった聖望学園だったため、家に寝に帰る以外はずっと一緒。
絆が深い仲間と野球ができたことが、甲子園初出場に大きく影響したと鳥谷選手も話しています。
特に仲間意識が強くなったのが、3年生の夏の県予選直前で行った泊まり込み合宿。
自宅通いゆえに一体感を生みにくい状況だったものの、寝食を共にすることで効果アップ。
ミーティング後も選手同士で本音で話し合う時間もたくさんあり、一気に伸びたそうです。
それを感じさせたのが、1999年夏の埼玉県大会での聖望学園の快進撃です。
この大会では、シード校8校がすべてベスト8に残るという激戦となっていました。
そして聖望学園は、5回戦・準々決勝・準決勝とすべてサヨナラ勝ちという奇跡を起こしています。
決勝の浦和学院戦では、4回表から8回表まで1安打の完璧なリリーフを演出。
さらに4回裏には、左中間を破る2点タイムリーを放ち、投打ともに大活躍をしたのです。
のちのインタビューでは、高校球児に向けてこんなコメントも残しています。
自分は3年生の夏は甲子園に行かせてもらったのですが、県大会の決勝までの3試合をすべてサヨナラ勝ちしたんです。野球は9回の3アウトになるまで分からない。これは野球だけに言えることではないのですが、練習でも何においても最後まであきらめないこと。最後まで力を出し切れば良い結果は待っているので、最後の最後まで気を抜かずに全力で戦って欲しいですね。
うむ、やっぱりカッコイイな。
残念ながら、甲子園1回戦で日田林工業に3-5で敗れましたが、新たな歴史を作った世代。
今も正月に集まるほど仲が良いメンバーだそうで、聖望学園で得た鳥谷選手の財産ですね。
高校時代の岡本監督から見た鳥谷敬とは
さて、ここからは少し視点を変えた鳥谷敬像を見てみたいと思います。
聖望学園高校時代の野球部監督だった岡本幹成監督は、鳥谷選手をどう評価していたのでしょうか。
岡本監督いわく、鳥谷選手が入学した当初の印象は「普通の高校生」だったそうです。
先頭に立ってチームを引っ張るタイプではなく、淡々と自分のやるべきことをやるタイプ。
3年生でキャプテンに指名しなかったのは、良い悪いではなく、そういう性格だったからだそう。
この性格は、今の鳥谷選手を見れば一目瞭然ですよね笑。
阪神タイガースでは一時期キャプテンもやっていましたが、タイプではないと自白していましたし。
岡本監督はさらに、鳥谷選手の姿勢が変わったのがちょうど甲子園出場がかかった頃だと。
この頃からチームの中心選手としての自覚が生まれ、成長したんだとおっしゃっています。
ここは鳥谷選手の証言とも一致していて、泊まり込み合宿を決行した時期だと思われます。
仲間との一体感が生まれたことで、職人肌の鳥谷選手も気持ちが高まったのでしょう。
2020年にはなりますが、岡本監督のインタビュー動画がアップされていたので貼っておきます。
ちなみに、鳥谷選手が本気のスイッチが入ったのは大学1年生の頃だそうです。
先輩が退部して空いたセカンドのポジションに抜擢されたものの、成績が残せず悔しかったのがきっかけ。
そこからストイックな鳥谷選手に生まれ変わり、2年生春の大会で三冠王獲得。
これを機に一気に才能を開花させ、8球団競合の末に逆指名で阪神タイガース入りしました。
父親の勧めから高校でも野球を続けた鳥谷選手ですが、センスは抜群だったそう。
そのセンスを生かしてプロでも大活躍できたのは、鳥谷選手の日々のたゆまぬ努力の賜物でしょう。
まとめ
阪神タイガースのレジェンド、鳥谷敬選手の高校時代をまとめてみました。
高校3年生でようやく注目された遅咲きの選手といえますが、聖望学園を甲子園に導いた功労者。
阪神タイガースでは、ショートのポジションで劣勢に立っていますが、もう一度勇姿が見たいです。
タイガースファンのみなさん、これからも鳥谷選手を全力で応援していきましょう!!